日本のサブカルチャーによって、薬物依存から抜け出すことができた、という話を目にした。
卵が先か鶏が先かという議論はあるけれど、娯楽が豊かになることで、僕らの不幸は、多少なりとも軽減されるのかもしれない。
たいして根拠の強い話ではないけれど、もしそうなら、朗報だ。勇気づけられる。
「週刊文春を潰したい」というホリエモンに対して、岡田斗司夫は「あれは「生贄システム」だから、潰れないよ」と指摘した。さすがは岡田斗司夫である。
100人の犠牲によって、1万人の鬱憤を晴らすのが、生贄システムだ。これは、人類の歴史と同じくらいの古く、強固なシステムといえる。
だから潰すことはできない、というのが岡田斗司夫の議論だけど、僕は「ちょっと待てよ」と思う。
生贄システムは、本当に不滅だろうか?
Xで松本人志や中居正広を叩いている投稿を見ると、確かに生贄システムは不滅であるかに見える。
でも、人の鬱憤を晴らすのが生贄システムだけかというと、そんなことはない。
例えば格闘技は、ローマの闘技場の歴史からみれば生贄システムの派生かもしれないけれど、ショーとして、あるいはスポーツとしての進化を遂げている。少なくともいまRIZINのリングに立っている格闘家は、自分を生贄だとは感じていないだろう。
音楽にしても、絵画にしても、漫画にしても、小説にしても、あらゆる娯楽は、他人を傷つけずに人の鬱憤を晴らすという点において、生贄システムより進化している。
僕らは生贄システムをいつか捨てることができるだろうか?
たぶん、僕が生きているうちには無理だろう。でも、これだけは言える。生贄システムを捨てるために必要な行動は、文春を攻撃することではなく、娯楽を生み出すことだ。
もっと魅力的な物語を紡ごう。
もっと素敵な音楽を奏でよう。
それだけが、僕らが生贄システムを捨てる、ただ一つの道なのだ。
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