
自分自身が60歳を越え、「老い」について考えるようになりました。ここではその思考を、少しシェアしてみます。
■50代に頭の中で考えていた「老い」と現実の「老い」のギャップ
人は誰でも、自分が年を取ったら、老人になったらどうなるのかということを考えると思うんです。
もちろん、本当のところは、実際にその年齢になってみないとわからない。でも、若いうちから、「老いとはなにか」「老いたらどうなるのか」をちゃんと考えておくことって大事だし、ある意味ですごく知的で、おもしろい試みだと思うんですね。
よく、「実感を伴わない思考は駄目だ」っていう議論がありますよね。ああだこうだと言葉をこねくりまわしても、ちゃんと自分の身体で体験しないと意味がないよ、という批判です。まったく正しいと思うんですが、一方で、「頭のなかで思考実験しておくこと」そのものは、決して否定すべきことじゃないと思うんです。
もしも思考実験が駄目だというなら、囲碁や将棋なんて、まったく無意味ですよね。そもそも囲碁や将棋って、自然界に存在しない、人間が作ったシミュレーションのなかで遊んでいるわけですから。
余談ですが、囲碁や将棋の世界でAIが人間を超えるようになったというのは、ある意味では、ちょっとねじれた、不思議な現象とも言えますよね。自然界には存在しないシミュレーション空間のなかで遊ぶという、人間の「人間らしさ」の極地とも言える領域において、人間が作ったAIが、人間を凌駕するようになった、ということですから。
■かつての自分を取り戻したいという執着
脱線しました。「自分が老いたらどうなるか」という思考実験に戻りましょう。
まず、「老い」というと、身体的な機能の衰えということがありますよね。たとえば、還暦を越えた僕がいま、もっとも切実に感じている身体的な「老い」は、「股関節の痛み」です。もちろん、誰もが経験するような、歩いていると若い頃よりもずっとはやく息が切れてしまう、というような細かな「老い」はほかにもたくさんあります。ただ、股関節の痛みは、ちょっとこれまでのものとは段違いに辛かったんです。
何がいちばん辛いかっていうと、実は、痛みそのものじゃないんですね。それよりはむしろ、周囲の反応なんです。僕が股関節の痛みをかばうような歩き方をしていても、周囲の人がそれをことさらに指摘しなくなった。これが辛いんですね。
10年若かったら、僕が足を引きずって歩いていたら「名越さん、どうしたんですか?」って聞かれたと思うんですけど、それがなくなった。これって、まさしく僕が老いの入り口に差し掛かっているという、象徴的な出来事だと思うんです。
僕自身は、こういう職業を長年やっていることもあって、そのことにさほど、傷ついているわけではないんです。でも、やっぱり心の奥底では、自分の衰えにショックを受けてるんでしょうね。それをなんとかしたい、と思うようになった。
でも、翻ってみると、この「なんとかしたい」という思いこそが、執着であり、「老い」なんじゃないか、とも思うんですよね。身体的に衰えることそのものもさることながら、自分が一番動けたとき、自分が一番元気だったときに「戻りたい」という思いにこそ、「老いの本質」があるんじゃないか。
これは、うつ病の患者さんにも共通するところがあるんですね。確かに「うつ症状」そのものの辛さというのはあるんだけど、強烈な鬱で苦しむ人っていうのは、「鬱じゃなかった頃に戻りたい」という思いに苦しむ。老いにも、そういう側面があるんだと思います。
(この項つづく)
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